宇宙に生命を求めて


地球以外の天体の生命探査が、太陽系の惑星探査の大きな原動力になっている。しかし、この生命探査については、科学者を始め賛同する市井の人達の間では、その目的や意義についての考え方は様々のようである。本文は、この点に関する筆者が調査をもとにこの問題を分析したもである。筆者は、コロラド州ボールダーのコロラド大学の地質学教授で、マース・グローバル・サーベイヤーの科学チームの一員である。彼の著書「他の惑星に生命を求めて」は、ケンブリッジ大学出版部によって発行された。[ 1998年07月/08月 ]

Bruce Jakosky(現MAVEN主任研究員 - Principal Investigator)
 

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Bruce Jakosky(現MAVEN主任研究員、元マース・グローバル・サーベイヤー科学チーム)
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地球外生命の発見は、個人や社会にどんな意味をもたらすのだろうか。もし、発見されたとすれば、たとえそれが他の天体の単細胞の微生物だとしても、宇宙のどこかに地球の生命とは関係なく、宇宙のどこかに生命が誕生したことになるものと思われる。私個人としては、生命を宿す惑星がたった一つでもあれば、それは銀河系の何処かで知的な生命体が発見されるのと同じ意義を持つことになるのだろうと考える。

この問題について、少し別の見方をする人達もいる。例えば、私が担当している「地球外の知的生命」の前期のゼミで、学生に地球以外の何処かで生命が発見されたらどう思うか聞いてみた。もちろんこれは科学的手法に基づく統計調査ではなく、特に学期も終りに近づいていた時期であったが、その結果は下記のとおり非常に興味深いものであった。
 

・地球以外の何処かでバクテリアが発見されることは、それはそれで科学的に興味深いことであるが、真に意義のあることは、地球以外の知的生命が発見されることに尽きる。(この意見が大勢を占めた)
・ほとんどに人にとってはどうでもいいことであり、それ程意味のあることではない。彼等の生活はこれまでとなんら変わるところはないだろう。
・地球以外の生命を探す前に、先ず地球上の諸問題を解決すべきである。
・地球外の知的生命の発見は、諸問題の解決の一助となり世界を救うことになるだろう。
・故意か偶然かいずれにしても、地球外の知的生命は人類の文明を破壊するだろう。
・地球外の生命ないし知能は近代宗教の説く見解とは矛盾する。
・近代宗教は、過去にも新発見や社会変革に対応してきており、地球外の生命や知能にも適応するだろう。
・地球外の知的生命は既に発見されているが、政府がこれを隠している。場所は恐らくニュー・メキシコ州のどこかの格納倉庫だろう。(もう一つの共通見解)
・地球外の知的生命は未だ発見されていないかもしれない。しかし、政府は何か隠しごとをしている。
 

上記で明らかなように、(地球以外の)生命の発見に関する反応は個々人の人生観とか信条の反映であることが想像できる。科学者と非科学者の間に、相違があるのだろうか。科学的観点からすると、生命は普遍的であるという合理的な見解である。ここ1、2年、地球外の知的生命の探査に関する科学的な進歩があったとする新聞が大見出しで騒いでいる。この中には、(太陽以外の)恒星の周りで惑星が発見されたとか、火星の隕石の中で生命と思しき化石が発見されたとか、極めて厳しい環境下で繁殖した地球の生命体が発見されたとか、木星の衛星のエウロパで液体の水が存在する生息地が発見されたといった情報がある。

科学者の立場から見れば、このような大見出しは氷山の一角に過ぎない。過去20年、我々はこれらの発見の裏側にある事実を詳細に研究してきた。様々な証拠から、初期の地球では、生命の誕生は急速且つ直線的であり、これと同じような過程が我々の太陽系や他の恒星周辺の惑星でも起こっていたのではなかろうかと思われる。

しかし、その可能性を信じるのと実際に真実を発見するのとでは大違いである。生命の存在は、何も地球の専売特許ではないという証拠が発見されれば、銀河系における我々人類の置かれた場所(地球)に関する我々の見方が明確になるのではなかろうか。つまり、我々人類は極めて興味深い単なる別の科学過程の結果に過ぎないのではないかと。

この辺で見方が様々に割れるのではなかろうかと、私が予測していた点である。思うに、宇宙生物学者(宇宙の何処かに存在または存在している可能性のある生命の研究)は、どうも自分の学理の範囲内でしか地球以外の生命体を捉えられないように思われる。彼等にとっては、その生命体が微生物であろうと知能を持った生物であろうと、それはたいした問題ではないのであろう。対照的に、私が行なった非科学者達の調査では、ほとんどが地球以外でバクテリアが発見されることに興味はそそられるが、非常に興奮させられるようなことだとは思っていないようである。真に世界の注目を浴びるには、知的生物の発見が待たれるのである。
 

どんな生命体を発見できるか

もし、(地球以外の)どこかに生命が存在するとしても、恐らくバクテリアの類であろうことを認識する必要がある。細菌は地球に発生した最初の有機体で数十億年もの間唯一の地球上の居住者であった。そして地球の歴史の、僅かここ六分の一位前に細菌よりかなり複雑に進化した生物が現れたのである。人類の出現に至っては、地球の歴史の、僅か 0.01% の期間を占めるに過ぎない。未だ広く一般に認識されている訳ではないが、バクテリアはその種類、有機体の数ないしは集団の総数では、今日の生物圏に依然として君臨しているのかもしれない。

我々の生涯で、地球外の知的生命を発見する可能性が最も高いのは火星であると私は信ずる。火星は、生命の誕生に必要な全ての要素を持っている(あるいは持っていた)ように思われる。現在でも火星に依然として生命が存在している可能性は高く、火星へは比較的容易に探査機を送ることができる。もちろん、火星で生命を探索してなおかつその証拠を発見できななかったとしても、それはそれで重要な意味を持つ。もし、火星の生命が存在したことがなかったとしたら、我々は近年の地球生命の起源や宇宙には生命が広く分布している可能性があるという現在の考え方を真剣に問いただしてみる必要がある。

それでは地球外の知的生命の可能性についてはどうだろうか。「スター・トレック」や「X - ファイル」のテレビ視聴者の常連は、全銀河系いたる所には知的生物が生存していると思うかもしれない。しかし知的とい概念は、その実態が曖昧である。人類を地球上の他の種族と区別しているのは、例えば、人類は道具を使えるとか、行動に予見しがたいものがあることを認識する能力があるということよりも、むしろ全体の体格の大きさに比べての脳の大きさである。

カール・セーガンによれば、知的能力が向上することはいかなる種族にとっても有利性をもたらすので、知的能力は生命が存在するいかなる所でも進化する可能性がある、ということである。一方で、大きな脳を発達させることもなく、知的能力に付随する自己認識能力の発達を見ることもない、地球上の無数の生物を考えてみよう。必ずしも知的能力へ自動的に結びつく必然性はないようである。むしろ、自分自身の体を司る必要以上には脳を発達させないという必然性が認められるようである。そして、他の天体に生息する種族の大きな脳が進化したとしても、それが自動的に知的能力に結びつくものではない。

我々が多くの可能性について議論している間にも、宇宙探査は続いている。生命を求めて火星に探査機を送っている。探査機カッシーニは土星への途上にあり、到着すると衛星のティタン(タイタン)を探査するので、その地表や大気、さらに生物以前の化学組成を知ることができるかもしれない。我々は他の恒星を回る衛星を探し続け、発見しそしてその性質を理解する努力を続け、そのために地球に似た惑星を探し、観察することができる新しい技術の開発に着手したのである。
 

何故知的生命の探査が大切なのか

地球外的知的生命に関する拙文の執筆や幾つかの議論を通じて、一つはっきりしてきたものがある。それは、地球外の知的生命の探査も微生物の生命の探査と同様に重要だということである。微生物はもっと広く分布しており発見もし易いかもしれないが、何処か(地球以外)の知的生命の発見は、それ自体が大変な意味をもつのである。つまり、このような生命は、もし発見できれば、生命、思想、知性、宇宙の本質について我々の理解を深める一助になるからである。生命を探す真の意義は、生命が知的、微生物的の如何を問わず、探す努力そのものにあり、そしてそれが地球上の我々人類に何を意味するかという点にある。

生命探査は、我々が社会的存在としてただ単に生活するというだけではなく、単にその日その日を生き延びるだけでもない何かそれ以上のものを求めることを意味している。生命探査は、我々が我々を取り巻く世界に如何に適応するかを理解し、人間であることが一体何であるのかを理解したいと願っている事を意味するのでもある。学生の一人が言ったように、様々な意味合いを込めて「我々は自分探しをしている」のである。この課題が科学者にもそうでない多くの人々にも強い共鳴を呼んでいるという事実そのものが、結果としてどのような意味があるとしても、我々人類の宇宙における場所を発見し、それを理解することの必要性を表わしているのである。

我々は、宇宙探査の途についたばかりだということを謙虚に認識しなければならない。五千年に及ぶ人類文明の記録でも、それは僅か250世代の記録に過ぎない。これからの100年で、地球に何が起こるか予測することは不可能である。まして、千年、百万年、十億年においておやである。同様に、宇宙に他に何があるのか予測することも不可能である。我々はこれを見出すべく探査を続けなければならない。

地球外的知的生命の議論をしていた時に誰かが言ったように、「(地球以外の)宇宙の何処かに生命が存在していても、しなくても、そのどちらも同じように、恐ろしい」ことである。
 

1998 INDEX
 



Akira IMOTO

Editorial Chief, Executive Director and Board of Director for The Planetary Society of Japan

Web edited : A. IMOTO TPSJ Editorial Office